和魂(にきみたま)

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『桜沢 如一』という漢 Coming Soon

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最近、私の心をわしづかみにしている人物がいます。

それは「桜沢如一」です。

名前は、「さくらざわ ゆきかず」と読むようですが、「にょいち」や若き日は「じょいち」との記載もあり、海外ではジョージ・オーサワの名で知られていたそうです。

 

この人物を調べていくうちに、そのスケールの大きさ、行動力、波乱万丈、ハチャメチャぶりに驚かされました。

なぜ、今まで知らなかったのだろうと不思議なくらいです。

たくさん著書もあります。

 

経歴が多岐にわたるので、全ては書ききれませんが、一部だけ紹介しておきます。

私のブログで今後、何度か掲載する予定ですので、今回はその予告編となります。

 

桜沢如一 - Wikipedia

父は如一が6歳の時に家を飛び出し、母の世津子は10歳の時に肺病で亡くなり、天涯孤独となった

 

少年の頃は病弱であり、誌歌に触れ女子のような10代を過ごした

本も買えないほど貧乏であった

 

14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ

 

16歳の時には肺結核、腸結核など多くの病に苦しむようになる

 

17歳で誌歌に触れ、雑誌『砂丘』を作り、他の誌歌の雑誌にも自分の作品を投稿したものである

 

20歳で石塚左玄食養法に出会い、健康を回復する

 

苦学を重ね商業高校、仏語学校を卒業し貿易商となる

ロンドンの汽船会社のチャーター船の事務長となる

当初、貿易会社を転々とした

 

1917年には資金提供を受け貿易会社を作って支配人となり、欧米にも渡るようになる

 

貿易事業と並行して、1919年には如一は雑誌『YOMIGAERI』を創刊して大和言葉のよみがえりを提唱

 

海外の本を輸入しては詩集を翻訳し、1923年には『NIPPON SISYU-KOTOBA NO HANATABA』(日本詩集・言葉の花束)を、ローマ字社から出版した

 

1920年には日本初の放送機と受信機をフランスより持ち帰り、ラジオ放送局の下地を作った

 

1923年10月、日本デブリ社を設立、デブリ社の撮影機やコダック社の生フィルムを輸入し、小型カメラや映写機の特許もとったとされる

 

当時、如一の妻であった栄子は何度も家出をしており、ジフテリアにかかった二女の信子を如一に預け、1924年2月に信子は如一の腕の中で息を引き取った

 

パリへの武者旅行の間の1935年には、超小型飛行機の「空のシラミ」(プー・ド・シェル)の専売権を得て、日本で国産し飛行させた

 

ムダを嫌い、紙きれ一枚でも両面を使うよう人を教育した

 

如一は、自身の病弱の克服にあたり東西の医学ではどうにもならず、偶然の出会いである正しい食物によって健康を回復し、その普及に努めるが、事あるごとに西洋医学による妨害があるため「西洋医学の根拠地の爆破を企て、単身渡欧し、事をしならずんば自爆あるのみ〔ママ〕」とその春、決意したのであった。(ママとは「原文の儘 (まま) 引用」を略記する際に用いる記号)

 

食費だけでも当時300円はかかる16日間のシベリア鉄道を、握り飯を携え1円足らずのお金で乗り越えていった。

パリに着くとすぐに筆を執り執筆業を目指したが、当初は収入にならず、割れ米を買い、郊外で雑草を集め、イチバに捨てられた野菜の葉っぱを集めるといった生活を3年間過ごしたが、後になってみると如一にとって懐かしく楽しい思い出であった

 

各種の本を出版し、各種の新聞や雑誌で鍼灸、華道、柔道、など東洋について論じた

 

著作が売れ医者や病人が訪問するようになると生活は豪華となった

 

軍部にて講演を試みたため右翼から襲われたが、最終的にはそれらをまとめ、軍部を糾弾する『日本を亡ぼす者はダレだ』を出版し、危険を避けるためにフランスに渡るなど反戦運動に尽くす

 

1936年、桜沢の理論の基盤となる陰陽についての『根本無双原理・易』、神道においてアマテラスの食事を司る神ウケモチについての『自然医学としての神道』を出版。1937年には食養会の会長に就任する

 

身に迫る危険を緩和するために、久邇宮朝融王や伏見宮一家、徳川家、松平家などの健康指導を行ったり、医学家、哲学作家として活動する

 

1932年には思想の習慣が東西で反対であるという『白色人種を敵として戦はねばならぬ理由』を出版

 

1941年3月には国際問題の言論に復帰し、『健康戦線の第一線に立ちて』を出版して再び筆は過激となり、暴力が身辺に及ぶ

その表紙を開いた扉ページの、「日本の指導者諸君につぐ・・敗れたるフランスの責任者が銃殺されたる事を銘記せよ」とはじまり統計をもとに病気や死産の多さを訴え、食事の重要性を訴えたものである。

 

5月には『日本を亡ぼす者はダレだ』が発禁書となり、続いて警視庁や検事局などで留置され、憲兵隊によって残虐な取り調べを受け、軍部の圧迫や右翼の迫害は日に日に増していった

 

1944年にはアナトール・フランスロマン・ロランを主とした『永遠の子供』(V2)と、軍国主義を粉砕する思想を盛り込んだ『心臓を入れ替える法』(V1)を出版する

 

ソ連に日米仲裁をさせるようソ連に向かうが、反戦論者として最終的に刑務所で留置され拷問を受けている間に日本は敗戦し、1945年9月ダグラス・マッカーサーの指令があり釈放され、マッカーサーに向け「特高を廃絶せよ」「神道を廃絶せよ」などの一文を送る

 

『日本を亡ぼす者はダレだ』を原因として公職追放を受け、日吉にメゾン・イノグラムス(M.I. 現在の日本CI協会)を開く

 

傍ら、再びインド・アフリカ・欧米など世界各地を訪ね、マクロビオティックの普及に注力する。

 

1955年には、アフリカへ向かい、翌年熱帯性潰瘍にかかるが食養で回復

 

1957年にはパリのドブレッス社から『ジャックとミチ』を出版し、これは1970年代にヴラン社へと発行が引き継がれ版を重ね、また英語、ドイツ語、オランダ語、イタリア語にも訳された

 

欧州でも活動したが、アメリカでも講演会やキャンプを開催し、ニューヨークの新聞『ヘラルド・トリビューン』に如一によるケネディ大統領暗殺の予言などが取り上げられるということもあった

 

その後の活動の主力を原子転換にシフトすることになる。

 

1962年のキューバ危機の際には、核戦争が起こればニューヨークは灰燼と化すと予言し、ニューヨークの会員にカルフォルニアの辺地チコ市への疎開を勧め、これを「20世紀のノアの箱舟」と称し、正食法に生きる人のみが核戦争から生き延びると断言、信じた人たちはキャラバンを組んでチコ市に向かった

 

1962年にはベルギーへと行き、イギリスのロンドンでも初の大講演を実施し、ドイツのコローヌ市でクナイプ博士の健康協会にて講演し、ミュンヘンで講演し、スウェーデンストックホルムにてその地のマクロビオティック協会のために講演会を行い、フランス、アメリカでキャンプによる講習と多忙に世界を飛び回っていた

 

 

「16日間のシベリア鉄道を、握り飯を携え1円足らずのお金で乗り越えていった。」

 ⇒ あり得ない行動力というか、ぶっ飛んでますね。

 

 「割れ米を買い、郊外で雑草を集め、イチバに捨てられた野菜の葉っぱを集めるといった生活を3年間過ごしたが、後になってみると如一にとって懐かしく楽しい思い出であった」

 ⇒ なんというポジティブシンキング!

 

しかしなぜ、正しい食物の普及に努めると、事あるごとに西洋医学による妨害が・・・ゲホッ

 

愛国者?危険人物?売国奴?賛否両論あるようですが、今後この人物を探っていきますので、お楽しみに!Coming Soon