和魂(にきみたま)

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三毒「貪・瞋・癡(とんじんち)」とは。「怒り」ほど邪魔な感情はない、持つべきは「しなやかな強さ」

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はじめに


煩悩の数は 108あると言われますが、特に重要視される「三毒」の意味やそれにまつわる教えについて今回は解説させていただきます。

煩悩とは仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)をいいます。

煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずるといいます。

 

日本の経済対策も過去最大の 108兆円でしたね。

 

 

三毒「貪瞋癡(とんじんち)」とは

 

三毒(さんどく)とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち 貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたもので人間の諸悪・苦しみの根源とされています。

ブッダの説いた根本仏教大乗仏教を通じて広く知られている概念です。

 

貪(とん)

 

貪欲(とんよく)ともいいます。

 

貪欲は「むさぼり、必要以上に求める心」を意味します。

 

私たちが人生を苦しいものだと感じるのは、私たちがあらゆるモノに執着するという煩悩が故です。

自己の欲するものに執着して飽くことを知らないこと。非常に欲の深いこと。

欲が生まれることは人である以上、自然なことではありますが、その欲が貪欲のように「何かを貪るように欲する」となると、私たちを苦しめるので対処する必要があるとお釈迦様は教えます。

 

老子の教えに「足るを知る」があり、その意味は「身の程をわきまえて、むやみに不満を持たない」といわれています。

しかしこれは「現状に満足すればよく、それ以上は何も行動しなくてよい」という意味ではありません。

 

「足るを知る」の全文は、このようになっています。

人を知る者は智、自ら知る者は明(めい)なり。

人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。

足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志有り。

その所を失わざる者は久し。

死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し。

 

 

この現代語訳は様々なものがありますが、その一例は次のようになります。

他人を理解することは普通の智恵であるが、自分を理解することには並外れた智恵の働きが必要である。

 

力のある者は他人に勝つが、本当の強者は自分に勝つ。

 

満足して感謝することを知っている者は精神的に豊かであり、それでいて努力する者にこそ志は宿っている。

 

自分の本来のあり方を見失わない者は長生きする。死んでもなお志を失わない者は真の長寿と言える。

 

 

「足るを知る者は富む」は、決して向上心や努力を否定しているわけではなく、自分のことをよく理解することや感謝することの大切さを示唆しているのです。

 

瞋(じん)

 

瞋恚(しんに)ともいいます。

 

瞋恚は「怒りの心(憎しみの心・妬みの心)」を意味します。

 

怒るという感情だけでなく、

・自分の思い通りにならない事への憤り

・周りの人間への憎しみの心

・自分の好ましくない人間に対しての妬みの心

なども含まれます。

 

怒ることによって自分の本来の思考力が発揮できなくなり、判断を間違えてあらぬ方向へと物事や自分の印象を進めてしまいます。

実際、怒りという感情によって大脳の機能に影響を及ぼし、脳の老化を進めるという研究結果もあります。

瞋恚というのは、実際に体に対しても毒であり、自分・周りに対しても毒になる非常に厄介なものなのです。

 

仏教の教えではありませんが、「怒り」は潜在意識にある「さみしい」「悲しい」「つらい」という感情が顕在意識として表に現れるのを防ぐために出てくる感情だという説もあります。

さらに潜在意識の奥底にある無意識の領域では、「大切にしてほしい」「愛してほしい」「認めてほしい」という感情が隠されているのだといいます。

 

いつも怒っている人の心の奥底には、例えば「さみしい」ので「大切にしてほしい」という感情が隠されているということです。

ただし、めったに怒らない人が怒る場合には、絶対に曲げられない信念のようなものに触れている可能性がありますので、全てにあてはまるものではないと考えます。

 

感情を持つことは人として正しい姿なのですが、「怒り」の感情は争いを招いてしまいます。

もしかしたら「怒り」の感情が沸いてきたとき、この潜在意識や無意識のことを思い出せば、そのエネルギーを別のものに変換できるのかもしれません。

また、怒っている人の隠された感情が分かれば、怒りに対して怒りで対抗することが減っていくのではないでしょうか。 

 

癡(ち)

 

愚癡(ぐち)ともいいます。

 

愚癡は「真理に対する無知の心」を意味します。

 

現代では、愚癡と言うと「愚痴をこぼす」などともいい、仕方のない不平不満などを言うことの意味ですが、仏教での愚癡の意味は「真理を知らないこと」になります。

真理という、この世の絶対的なルールを知らないことで、愚かな考えや行動を起こすのだといいます。

 
論語にも「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」という類似した言及があります。しかしこれらは「無知が良い」という意味ではなく、「無知であることを自覚することで、新たな学びを行うことを促進し、その結果無知を克服し成長する」ことを意味します。

 

無知の無知(自分は何でも知っている)

⇒ 他責(だから環境と他人が悪い)

⇒ 思考停止(だから自分が考えることはない)

 

無知の知(自分は何も知らない)

⇒ 自責(だから学ぶべきは自分)

⇒ 思考回路起動(だからどうするか考えよう)

 

 

まとめ

 

三毒・貪瞋癡が意味するのはいずれも私たちの心が自然と持ってしまっている心の動きなのです。

意識をしなければ、心はすべて三毒を中心に煩悩にまみれたものとなってしまいます。

この煩悩まみれるというのを、毒と表現して三毒と表記しますが、他にも「心が垢にまみれる」と表現され、三毒は三垢(さんく)とも表記されます。

 

悟り(菩提)とそれを妨げる迷い(煩悩)とは、ともに人間の本性の働きであり、煩悩がやがては悟りの縁となることであるといわれています。

 

 

■参考資料

煩悩 - Wikipedia

三毒 - Wikipedia

三毒・貪瞋痴(とんじんち)とは|煩悩を意味する三毒の意味(貪/瞋/痴)を解説 | 神仏.ネット

無知 - Wikipedia

「無知の知」を知っていますか? | 考える練習をしよう | ダイヤモンド・オンライン

 

おまけ


「怒り」に関する「大愚和尚」の動画を貼っておきます。

 

真剣勝負に「怒り」ほど邪魔な感情はない。持つべきは「しなやかな強さ」。 (29:59)

www.youtube.com