『ホリスティックな生き方』 ~「競争」の時代から「協創・共存」の時代へ~
すべての存在が、つながりあい、支えあっている「ホリスティックな見方・考え方」は、日本人にピッタリです。
その理由を「ホリスティック教育」から紐解いていきます。
以下の記事の内容は、 「日本ホリスティック教育協会」から引用
背 景
わたしたちは、経済発展や生産性の向上を第一の目的とし、物質的な豊かさばかりを追い求め、人間性を育てることをおろそかにしてきました。
そのため、生活は豊かになったにもかかわらず、いちばん大切な人間的なあたたかさやこころの豊かさを失い、孤独感やむなしさを感じている人も多いのです。
わたしたちは、地球上のすべてのものがつながりあっていることを忘れ、命への畏敬を失い、産業社会的な価値観や科学技術信仰のみにとらわれてきました。
そのため、競争にあけくれて協力することを忘れ、資源の枯渇をかえりみず消費に走り、人間的なかかわりや信頼感よりも管理・支配に頼ってきました。
その結果、病んだ生態系を生み出し、本来人間を幸せにするはずの科学技術の発展が、人類と地球の破滅を招くという皮肉な結末を迎えようとしています。
このように、病んだ教育と病んだ生態系―その根源は、同じところにあります。
それは、人間性やこころを見失った、この現代文明そのものの危機なのです。
このような文明の危機を迎えた今、わたしたちは、人類史的な転換期に立っています。
この危機は、現代文明を支えてきた世界観・人間観・教育観をそのままにして、技術的に解決できるものではありません。
ホリスティック教育とは
ホリスティック教育とは、人はみな、地域や自然界との関わりを持ち、思いやりや平穏などの精神的価値観を追い求めることで、自己の存在証明、人生の目的や意味を見出していく教育のことです。
ホリスティック教育は、人々の内に秘められている命への尊厳と、学ぶことに対する大きな喜びを引き出していくことを目指しています。
教師も親も、もうお互いに批判しあうのはやめようではありませんか。
よりよい生き方、よりよい教育を願う気持ちは、みんな同じなのです。
すべての人が、いま、自分の立場で何ができるか、という発想を持ち、行動を起こす必要があります。
わたしたちは、いまこそ、ともに手をたずさえ、創造的な活動を展開していこうではありませんか。
つながり
人間は地球生態系の一部であり、地球生態系は宇宙の一部であり、宇宙のなかのすべてのもの、地球生態系のなかのすべてのものは、つながりあっています。
それゆえ、存在するすべてのものは、たとえそれひとつでは意味のないように見えても、大きなつながりのなかでは意味を持っており、不必要なものは何もありません。
すべては全体のなかの一部なのです。
さまざまなものをつつみこみ、活かし、その一面性、断片性を補い、全体のなかでつりあいをとろうとするのです。
すべてのものは他の存在によって支えられ、活かされています。
そして、すべてのものは他の存在を支え、活かしています。
すべてがつながりあっているのですから、自分が変われば全体が変わることになります。
自分が喜びを感じれば、まわりに喜びを伝えることになります。
このように、自分が変わることによって世界が変わるという希望を持つことができます。
わたしたちは、この世界に、自己に対して、他人に対して、そしてこの地球に対して、贈り物をするために生まれてきます。
つつみこむ
学びにはさまざまな道があり、そのすべてを活かし、統合していくことこそ必要です。
つまり、ホリスティックな教育は伝統的な教育を否定するものではなく、それらをすべてつつみこみ、一つひとつの教育理論や技法の断片性を補うことで全体的な調和をつくりだそうとするのです。
すべての生命現象の本質は多様性ですが、「つつみこむ」とは、ひとつのものが巨大化され、他をのみこんでしまうことではありません。
そうではなく、全体との調和のなかで、すべてがそのままで活かされることです。
つまり、多様化が排除されるのではなく、全体のなかで多様性が多様性のままに活かされることなのです。
調和する
たとえ部分的には葛藤があっても、全体として見ると、その葛藤している部分も、もっと大きな調和の中に活かされているのがわかります。
宇宙の生命現象は、たえず動き、変化していきます。
固定化したものは何もありません。
ゆらぎ、変化するプロセスそのものが、生きるということなのです。
ゆがみは、つながりを見失うこと、調和をくずすこと、固定的、絶対的なものを求めることから生まれてきます。
わたしたちは、現実社会を否定して、この現実社会を崩壊したときに、新しい至福の世界が生まれるとは考えません。
現実社会のなかでこそ、わたしたちは生き、成長し、現実社会をよりよいものに変革していくことができるのです。
また、わたしたちは、これまでの文明を否定しようとするのではありません。
人類の築きあげてきたものを破壊しようとするのではありません。
むしろ、大きないのちのつながりのなかで、人類の遺産をよみがえらせ、新しい視野のなかで活かそうとするのです。
否定し、破壊すべきものは、何もありません。
すべてを活かし、全体的な調和を取り戻そうとするだけなのです。
個性と自立
ホリスティックな考え方では、すべての存在がつながりあい、支えあっていると考えます。
一人ひとりの違いがあるからこそ、それぞれが自立しつつ、関わりあい、それぞれの違いを活かしあい補いあう相互依存関係が可能になるのです。
違いがあることが豊かさであり、違いと出会う時に、新しい気づきが生まれます。
つまり、画一的で同質的な集団よりも、多様で異質性の高い集団のほうが、長期的に見ればもっとも安定的で創造的なのです。
個性とは、相互補完的関係における多様性をいい、自立とは、孤立でもなく、依存でもなく、持ち味を活かしあい、足りないところはお互いに補いあう関係をつくりあげていく、相互補完的な状態をいいます。
ホリスティックな見方をすれば、一人ですべてのことができる完全な人間像を求める必要はありません。
そういう人間像には、生き生きしたいのちの輝きも個性もなくなってしまうでしょう。
学ぶ
新しいことを学ぶと、世界が今までとは違ったように見えてきます。
世界が違って見えると、自分の行動の仕方、生き方のスタイルが変わってきます。
つまり、学ぶとは、自分と世界のかかわりが深まること、つながりが深まることなのです。
学ぶとは、喜びを創造することです。
喜びとは、新しい自己を発見する喜びを意味します。
何かがかわり、何かに目覚め、何かができるようになり、何かに気づき、自分の意志で自分の行動、自分の価値観、自分の生き方を選びとり、その結果を自分で引き受けていく時、新しい自己が生まれます。
さまざまな感覚を使って世界に学ぼうとするとき、世界はその豊かな意味を明らかにしてくれます。
体験はダイナミックで、つねに変化し、成長をはぐくみます。
教育の目的は、体験を通して、すこやかで自然な成長をうながすことであり、決して限定された断片的な知識を与えることではありません。
生きた知識も、まことの知恵も、生きた体験から生まれてくるのです。
自分と世界とのかかわりあいが質的に転換するような劇的な学びは、まったく予想しないような「出会い」と新しい「気づき」の体験から生まれます。
基礎的な知識の習得のというような、プログラム化された系統的な学びの場でも、このような「出会い」や「気づき」は尊重されなければなりません。
学びの場、出会いの場は、学校だけにあるのではありません。
家庭も、職場も、自然もすべて学びの場です。
人生で出会うすべての人が教師であり、リーダーです。
わたしたちは、すべての体験から学ぶことができます。
人生そのものが学びの場、学校なのです。
学ぶということは、いのちある限り、一生続くものです。
真の自由
真の自由とは、すべてのつながりのなかで、自分の行動、あり方、価値観などを自分の意志で選択し、決定し、自己責任を負うことです。
人間は成功や失敗を通じて、自分で学んでいく権利があります。
ここに「管理」か「自由」か、「自由」か「放任」かといった問題を解くカギがあります。
画一的な教育管理の反対は、自由な教育であると考えられてきました。
その自由とは、拘束からの解放としての自由、いっさいの外的な限定を受けずに自分のやりたいようにできる自由を意味していました。
つまり、束縛、ルール、押しつけ、干渉から解放される自由だったのです。
このような自由は、他との相互作用・相互補完のつながりから、人が孤立していることが前提になっていました。
しかしホリスティックな立場では、他の存在から孤立した個人は存在しない以上、そのような自由は存在しないことになります。
人間を物のように管理・コントロールできるというのも、人間は何ものにも限定されない自由を持つというのも、共に幻想なのです。
人間には、すべてのつながりのなかで、自分の行動、価値観などを自分の意志で選択し、自己決定し、その結果を自分で引き受ける根源的自由があります。
真に自立した人とは、適切な相互補完的な関係を結べる人であり、真に自由な人とは、つながりのなかへ開かれた人なのです。
まとめ
わたしたちは、物質的な豊かさだけでなく、本質的に、心の喜び、心の充足、心のやすらぎなどの精神的な豊かさを求めています。
そして、わたしたちは、他者とのつながりの自覚、共感的な理解、他者の要求に耳を傾ける力、他者の痛みを自分の痛みと感じる感受性を重視します。
わたしたちは、そのような共感的な理解を持ちながら、間違っているものは間違っていると言える勇気、不正なものへの怒り、おかしいものはおかしいと感じる感性、まどわされることのない批判的な思考力、判断力・行動力などを大切にします。
わたしたちは、少数者の意見にも耳を傾け、尊重します。
そして、国家レベルでの中央集権ではなく、権限の多様なレベルへの分散、支配的な関係よりも協力的な関係、受け身ではなく自分から新しいものを創造していく行動力などを大切にします。
上から与えられるものに頼るのではなく、自分からつくりあげていこうとします。
わたしたちは、現実社会のなかで、今、ここで、自分に何ができるかを考え、つながりのなかで行動し、共に学び合おうとします。
共に新しいものを生み出そうとする共同創造のかかわりは、喜びを生み出し、自分が変わることによってみんなが変わるという体験にもなっていくでしょう。
21世紀が近づくにつれて、わたしたちの社会のあらゆる領域で、根源的な転換が求められてきています。
わたしたちはいま、学校制度を含めてすべての社会制度や職業論理は歴史のある限られた時代のためにつくられていること、そして、今まさにその時代が閉じられようとしていることに、気づきはじめています。
教育も今や、変わらなければならない時が来ました。
来るべき時代の教育はホリスティックでなければなりません。
ホリスティックな教育は、一人ひとりが自分の内に持っている、生きる意味を求めようとする、もっとも大切な願いを満たしていこうとします。
一人ひとりが個性を活かして自分なりの実践方法を生み出し、その成果をわかちあうならば、その相互交流のなかから、きわめて急速によりよいものが生まれていくでしょう。
未来は、わたしたちがいま、創造するものなのです。
おわりに
「ホリスティック」って、なんだかステキやん^^
このホリスティックな考え方は、ホリスティック教育、ホリスティック医療、ホリスティック〇〇へと展開されはじめています。
全てのものには、魂が宿っていると考えてきた日本人には、ピッタリの考え方です。
それは、日本語に秘められた言霊「五十音図」が、カギを握っているのかもしれません。